
| どうしようもない、この世界を私は愛する。衝動的で享楽的、交際クラブとソープを掛け持つ真魚嬢がエロティシズムを語る |
| 16.『映画『ブレードランナー』にみる行き止まりの未来と新しき夢』 |
映画『ブレードランナー』は1982年の公開以来、カルト的人気となったSF映画の金字塔。だからこの映画を紹介するのは今更なんだけど、風俗嬢って昔のSFなんかは見ないのでは? と思って今回テーマにしてみました。 画面を見ているだけで十分カッコイイ……そんなブレランの舞台となるのは2019年のロサンジェルス。映画が製作された当時、手の届きそうなくらいの近未来をイメージして作られたのね。 近未来というとどのような世界をイメージするだろう? 鉄腕アトムに出てくるような、チリひとつないクリーンなハイテク都市? とんでもない。ブレランの世界は様々な人種がごった返し、宗教も文化もオモチャ箱をひっくり返したように入り乱れ、デタラメに建てられた建築物にゴミだらけの街。そこで人々は他の場所に移住することもせず、酸性雨に打たれながら生きている。 まるで私たちが暮らすこの現代が、そのまま発展せずに腐っていったかのよう。 経済や政治も機能しなくなり、代わりにタイレル社という巨大企業が君臨、街中を毒々しいネオンサインが埋めつくし、「すべての公共空間は広告によって侵食される」と言ったフランスの思想家、ボードリヤールの言葉のままの世界。 消費社会では広告は商品そのもの以上に重要になる。モノも人も溢れた現在、商品そのものの価値よりもその商品がまとうイメージこそが重要になるのだ。 具体的な例をあげよう。セックスさえ拡散している世の中ではあらゆる消費物が性的色彩をおびている。まさに私たちが売る物でもある“性”は、ここで“産業としての性”になるのだ。私たちの肉体はB86W58……などというふうに記号化され、消費可能なブツとなり、マニュアル化した快楽の舞台で売られる。 商品である以上、イメージがものをいう。似たような容姿と性質のふたりの女のコがいたとしたら、あとは彼女らのまとうイメージがものをいうのだ。風俗未経験でも元モデルでもいいが、そういったものが。 やがてイメージは現実をこえる。実際のセックスで女がAVのように感じないと男はセックスをしている気になれない、というふうに。 では“現実”=“真の姿”なのだろうか? 私たちは客の前で取り繕い、理想の女のコを演じて気に入られようと天使にも妖婦にもなってきたのではないか。 トロくて天然ぎみで頭はあんまり回らないけど裏がなく素直ないいコを演じたり、よい友人であり母であり恋人であり愛人であり……そんなふうに猫の目みたくクルクル姿を変えられちゃうのではないだろうか? 風俗にかぎらない。街を歩いている誰もが、よく言えば社会生活を円滑にし自分に得になるように、醜い人格を隠している。 何がホンモノで何がイメージなのかわからなくなり、さらに絶え間ない広告の誘惑の中で私たちは自分が本当に欲望しているものが何なのかもわからなくなってしまう。 しかし、あくまで私たちの客のまだいくらかの男性は、人間の濃い、生々しい何か、生命力の塊みたいなものに触れたくて風俗に来ているだろう。 だから客は女のコの取り繕った虚飾の仮面を引っぺがすのに躍起になる。 嫌がるのがわかっていて即尺をさせようとしたり、隠語を言わせようとしたり、卑猥な言葉を浴びせかけたり、はしたない格好をさせたり、おしっこを飲ませようとしたり……数え上げればきりがない。 産業としての性の中には本来、性行為の中のあった人間の、生々しい、むきだしの、濃い、何かはなく、だが客はそれにこそ触れたいのだから、上述のような行為に及ぶのも無理はない。 ブレランの世界もしかり。未来なき都市で他者とのつながりもなく、自分にすら無関心に生きる人々。 だが、そんな迷子のような都市と人間の世界に、ひときわ精彩をはなって登場するものがいる。 ロイ・バッディ。彼は反乱レプリカントのリーダーだ。レプリカントとはタイレル社が過酷な外惑星で奴隷労働をさせるために生み出した最底辺の労働力。人造人間(というかバイオロイド)であるレプリカントは「人間以上に人間らしく」つくられた。唯一の人間との違いは彼らが感情を持たないこと。 だがそんな彼らにも感情が芽生えることがわかった。これは危険だ。なぜなら彼らは人間以上なのだから。そこでタイレル社は安全装置を組み込むことにした。彼らの寿命を4年と定めたのだ。 ロイは、殖民惑星で多数の人間を殺し、宇宙船をハイジャックして、レプリカントたちを引き連れ地球にやってきた。その目的は自分の造物主に会い、寿命を延ばしてくれと伝えるため。 反乱レプリカントを迎え撃つのはブレードランナーと呼ばれる人間。地球に亡命してきたレプリカントを見つけるなり射殺するのが仕事だ。 主人公のデッカードは元警察のブレードランナー。自分の感覚にも感情にも無感覚に、レプリカントを廃棄していく。 感情が鈍磨し、ただ呆然とし、意欲もなく、自発的な意志すらうかがえない人間たち。それにくらべレプリカントたちは泣き、怒り、愛し、憎み……もっと生きたいと何よりも望み、瑞々しい生命の力を発散させる。 どちらが人間らしいだろう? 丸腰の相手を撃ってもなんとも感じない人間と、仲間のために泣き、命すら捧げられるレプリカントたちと。 どちらが人間らしいだろうか? この映画に感動するのは、何より反乱レプリカントたちの溢れるばかりの生だ。過去も未来もない存在としてつくられ、強制労度のもと死んでいく運命だが、そこで彼らは限り在る生をめいっぱい生きた。 原作者のフィリップ・K・ディックは「真正の人間を形作るものは何か?」という問いを発している。 レプリカントたちを見ていると、発生学的に人間であるかどうかなんてどうでもよくなる。生まれも家系も財産も肩書きも学歴もどうでもいい。いかに生きたかだ。 人間が自分にも世界にも無気力になっている間に、誰の真似でもない自分だけの生を、運命にさからって必死に切り開こうと生きる彼らの姿は、眩暈がするほど眩しく映る。 |
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